「これからは個の時代だ。1億総発信時代!」などと言われて久しいが、これほどまでに個人が個の意見を発信可能、かつ発信が求められる時代がこれまであっただろうか。(いや、ない。...と思う。)
私自身も、TwitterやらInstagramで日々発信はしているが、あくまでプライベートの領域で、何も責任のない個人の見解を述べているだけ。自分の意見をかしこまって文書化などしている感覚は毛頭ない。正直に言うと、noteやらブログで記事を書くことが苦手だ。
では、なぜ改めて文章にしようとすると急に書けなくなるのか、自分なりの仮説をもとにざっくりと考察したい。
1. 伝えたいメッセージが明確でないから
まず、伝えたいメッセージが明確ではないことが挙げられると考える。
少し前のコンサル界隈からすると、『考える技術・書く技術』*でも読んで出直してこい!と言ったところだろうか。私自身も各所からお叱りを受けそうだ。
* 元マッキンゼー・バーバラ ミント氏による独自の文書作成術を著した論理的思考についての指南書。「ピラミッド原則」という考え方を提示し、メッセージを抽象化/グループ化(トップダウン、ボトムアップ両面から)して伝えることが重要と説いている。
極論、伝えたいことがないのであれば、書く必要はない。
沈黙が嫌だから、とりあえず当たり障りない会話で場を繋ぐような、無駄なコミュニケーションは不要!って感じかなと。
2. 完全かつ完璧な文章をいきなり書こうとするから
「いきなりスライド作成に取り掛かるなって言ったじゃない!」と、これまたコンサル界隈の誰かから刺されそうな原因だが、まず、メッセージ(伝えたいこと)とストーリーライン(伝える流れ)が不明瞭な段階で、完成形は作れない。
くわえて、最初から完璧な作成物を作るのは困難にも関わらず、作家やプロのライターと比較し、自身のレベルが低いと認識し、書くことをやめてしまう。
以上の背景から、完璧なものを求めすぎてしまうあまり(自分に期待しすぎて)、行動に移せないのかなと。目指せ!脱・完璧主義!
私自身、不完全で良いからとりあえず発信しようと思っている。このnoteがまさにその取り組みの一つだ。
3. 自分のポジションを取ることが怖いから
最後に、自分の意思や意見をポジションを取って述べることには怖さが伴うからだと考える。AかBか見解を迫られた時、「自分はA派です。」と言い切るのは、Bの捨象を意味する。B派からの批判というリスク覚悟なわけだから当然ではあるが。また、よくある注記文*もその類だろう。
*「効果には、個人差があります。」や、「ご利用に際しては、ご自身の責任のもとご判断ください。」とか
とはいえ、人生を送っていれば全ての人が何らかのポジショニングを行なっているとも考えている。例えば、住居、進学・就職先、結婚有無など、あらゆる選択の裏には、選択されなかったオプションがあり、それらは捨象されてきた結果、その人の今があるためだ。
と、話は逸れたが、要は人生で知らず知らず行なっているポジショニングを、文章で意見を発信する際にもするだけで良いのではないかと思う。
ここまで、文章を書けない、発信できない問題に対する原因を書いてきた。明確な解決策は提示できなかったが、一定、慣れが影響してくると考えているため、「まず書く場数を踏むこと」が私なりの暫定解である。
※あくまで、個人の見解です。ご利用に際しては、ご自身の責任のもとご判断ください。